従兄弟の死
私の自慢の一つは、従兄弟が非常に多いことだ。
親父の兄弟は10人、母親の兄弟は4人、従兄弟は25人
25人いれば本当に色々な人がいる。中には有名国立大学を出て役所に行っている人や、大手の役員をしてる人、学校の先生や、医者、看護婦、大工、個人でブローカーみたいな仕事をしている人、また葡萄農園をやっている人もいる。本当に様々だ。
親戚の人には、高校の時、応援バスを出して頂いたり、私がクラブンに入社した時は、無理を言って、電気カーペット、エアコン、また、新築の時は、家具まで買って頂きました。本当に感謝の限りです。
昨年、従兄弟の中でも一番尊敬していた、母方の従兄弟が、52歳の若さで他界してしまいました。
その従兄弟は、美作に暮らしていたので、小さい時は、休みになると、よく泊まりに行っていました。年も三歳しか違わないこともあり、小さいときは、会うたびにレスリングや、ボクシング、キャッチボールを無理やりやってもらっていました。いつもその従兄弟は「お前はいつも元気がいいのー、頼むからじっとしといてくれ」と言いながら、いつも笑顔で優しく、付き合ってくれていました。今思えば、めんどくさいガキを嫌な顔をせず、よく付き合ってくれたなとつくづく思います。
そして、津山高校を出て、防衛医学大学を卒業し、埼玉の総合病院の小児科の先生になりました。
怒ったり、イライラしたりすることの無い、優しい人だったので、親戚一同、「小児科は天職だな」と言われて医者になった。
4年前に、叔父さんのお見舞いで久しぶりに会った。
「営業やっているのか、大変じゃろー」と声をかけてくれた。「いやいや医者の方が大変じゃろ」「そろそろ開業しないの?」と聞くと「色々な考えがあるが、頼って多くの患者が着てくれるから総合病院の方が向いとるわ。開業医は自分には向かんわ」と言って「お前はいつも戦っとるな、頑張れ」といって別れた。
一年前、その従兄弟が胃癌になってステージ4という連絡が入った。「医者なのに何やっとん?」母親に聞くと「患者も多く、無理して休まず働いていたので、処置が遅れた」との事。らしいといえばらしいが、残念で仕方が無かった。まだ、大学生が子供二人もいて大変なのに、病気発覚後もギリギリまで働いていたそうです。そして、半年後帰らぬ人となってしまった。
埼玉で平日の葬儀だったので、葬儀には参加できなかった。法事は美作で行われたが、仕事でいけず、ずっと気になっていたが、この5月の連休で焼香に行って来た。写真は病気になった後の写真でかなり頬が欠けていた。写真を見ていると「お前はいつも元気じゃのー、まだまだ、一杯勝負して社会に貢献せいよ」「俺はやるだけやったから」そんな、言葉が写真から響いてきた。約1時間間ぐらいいたが、叔母さんはずっと「あんたも体だけは気をつけねーよ」「何かあったら早く医者に行くんよ」帰るまで声をかけてくれた。
その従兄弟の苗字は○林、私の近くいる部下と同じ苗字、誕生日も同じで縁もある。本当に良く働く、まずは、そいつの体を一番に気遣ってやらねば
日々悔いの無い人生を送ります。
K・A